たったひとつの名前。
いつもの神社の縁側。
早朝の空気は少し肌寒く、まだ冷えた夜気が残っているかのようだった。
そこに腰掛け、日滝は着物を肩から羽織った状態で白い子猫を撫でている。
その様子を布団の中から眺めながら、日景は眠気眼を擦りながら口を開いた。
「兄上ー」
「…ん、起きとったんか。なんや?」
「前々から聞こうと思うとったんやけどな…その猫」
布団の中からにょきりと伸びる腕。
指差されているのは日滝の腕の中で丸まっている白猫だった。
日景はその猫を見たまま問う。
「…なんて名前なん?」
シグ。
自分の大切に想う人から取った名。
これを呼べば返事は無いものの寄っては来る。
それを普通に答えようとして、…何故か言葉が続かなかった。
そういえば猫の名前を紹介するのはこれが初めてだ。日景は猫の名前は知らなくとも時雨のことは知っている。
何か、とても明るい満面の笑みを浮かべる弟の顔が浮かんだ。
「………」
「兄上、あーにうえー?」
「………んむ…」
すっくと日滝が立ち上がると、丸まっていた白猫は器用に肩へと移動した。
まずは…そう、準備が必要だ。
墨はそんなに濃くなくて良いだろう、和紙は少し厚手のものを使おうか。書けたら封筒に入れておいても良いかもしれない。
封にシールを使うのは好みではないが、勝手に開いては困る。今は妥協しよう。
出来たならあとは場所を決めるだけ。
屋根の上か…物置か……いや。
ここはシンプルに普段目につかぬ場所で良い。
「よし」
日滝は満足げな顔をし、欠伸をかみ殺す弟の前に戻ってきた。
そして言い放つ。
「答えはこの神社のどこかに隠してきた。…自力で探してみい」
「…………言うんが恥ずかしいなら初めから言いやー…」
表情どころか体ごと固まる日滝。
「なッ…なにを、言うてるんや?理由なんて一言も言うてへんやろがっ…」
「兄上が変な行動する時は大抵そうやろ?」
「へ…変?っええい、なんでもええ。とにかく俺の口からは言わんぞ、知りたかったら自分で見つけるんやな!」
ぷいっと横を向くと、日滝は白猫と一緒に廊下の角へと消えて行った。
その横顔が赤かったかどうかは日景と白猫しか知らない。
「今度兄上にお守りでもあげよかなぁ…素直になれるやつ…」
ややあって、ぽつりとそう呟いた日景は布団から身を起こした。
恐らく作っても受け取ってはもらえないだろうが、多少の効力は期待出来るだろうか。
今度試してみようと思いながら廊下へ出ると、そこは室内よりも冷たく澄んだ空気に包まれていた。
***
翌日日景は風邪をひいた。
双子はそれぞれ違う理由で頬を染めながら言い合っている。
「井戸ん中に隠すなんて反則やろう、兄上…」
「わかった名前で散々ひとの事弄っといて何を言うんや、何を…!」
「…ふふー、シグ君シグくあうっ」
「もっと頭に響かせてほしかったら言いや、優しい俺が優しく響かせたろう」
「優しくするんはひとりなクセにー…おぅっ!?」
「次言うたら…埋めるっ!」
「さ、殺人事件は起こさんといてや兄上ー!」
騒がしい朝。
それでも白猫はいつものように、のんびりと日滝の膝の上で丸まっていた。