桜の道標


 桜の花びらが一枚、少女の目の前に舞い落ちた。
 少女は辺りを見回してみるが、桜の木は無い。風に乗って運ばれてきたのだろうか――そこまで考えて、花びらまみれの少年が走っているのを発見した。
 年は少女よりも少し上ほどだろうか。真っ白な髪の毛に銀色の瞳をしている。大きめな眼鏡が今にもずり落ちそうなくらいのスピードで走っていた。
「あれ…」
 誰だろう、と聞こうとしたが、その相手が居ない。そうこうしている間に少年の姿は見えなくなってしまった。
 親戚だろう、と少女は無言のまま見当をつける。髪色は自分と同じだったし、着ているものも近かった。なによりここは屋敷の敷地内だ。
「鼎」
 思いを巡らせていると、後ろから低い声がかかった。呼ばれた名前は自分のもの。つい最近まで自分に名前がある自覚がなかった少女だが、呼ばれるのにも慣れてきた。
 少女は小さく返事をすると、屋敷の方に戻っていった。


「白髪に銀色の目?…それは本家の日滝坊ちゃんだな」
3ヶ月前、初めて少女と顔を合わせた叔父は渋そうな顔で呟くように言った。
「ひなた?」
「本家の長男だ、将来的には仕えることになる」
「仕える…あんな桜まみれやった子に…?」
 少女の小さな声が届いたのか、叔父は顔を歪めて笑った。
「あぁなるほど、裏の桜の木が荒らされているという知らせがあったのはそれか。そんな馬鹿やるのは弟の方だ」
「弟がおるん…?」
 少女に兄弟は居ないが、言葉の意味はきっちりと土牢の中で学んだ。主にこっそり持ち込まれた書物などで、だが。
「日景、という。日滝坊ちゃんの双子の弟だ」
「ひ…かげ」
「名の由来は日陰だと聞く…生まれながらにして兄を影より支えることを義務付けられている子だな」
 ただし、と叔父は渋面を作った。
「アレは日滝坊ちゃんより…そうだな…騒動を起こすのが上手い」
「騒動…さっき言うてたみたいな…?」
「まだ序の口だろう。…さて、それじゃあ鼎。儂はもう母屋へ帰る。あとはいつものように大人しくしておくこと。…良いな?」
 話を切り上げた叔父は音もなく立ち上がると、低く鼎にそう言い残して襖を閉めて出て行った。
「ひかげ…。日景」
 名前を何度も反芻する。兄の影に隠れ、未来すら縛られている少年の名。
 ふと気になった。
 少年自身はそのことをどう感じ、どう思っているのだろう…と。
「……」
 将来仕えるのは兄の方。叔父はああ言ったが…影となる者に仕えてみるのも楽しいのではないだろうか。
 いわば自分ははみ出し者。自身の存在をきちんと見てくれる人など最近まで居なかった。少年も立場こそ鼎よりは良いが、本人の意識など無いかの扱いを受けているように感じる。
 鼎は叔父と同じように音もなく立ち上がると、叔父が出て行ったのとは逆の襖を開けた。
 開けて、桜の花びらが転々と落ちる道をひたすら進んでいった。


 聞きたい。


 あんたはホンマはどう思うとるの、と。


 支えてみたい。


 そうすれば、日滝に仕えた時にはわからなかったであろうことを知れそうだったから。


了.

 

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